ミーハーになれないわたしの処世術

WBCを通じて感じたこと たのしむ

思考のきっかけ

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本が3大会ぶりの優勝を果たした日の夜だった。親しい友人とごはんを食べている時に、「見た?」と聞かれたのだ。わたしは、決勝前日の夜にTwitterのタイムラインの盛り上がりを見てはじめて、野球がやっていることや日本人のメジャーリーガーが出ていることに気が付いたレベルだったので、質問への答えはもちろん「いいえ」だった。

実は野球に限った話ではない。サッカーW杯も、オリンピックも。世界で大興行しているハリウッド映画や、漫画やアニメのような類には食指がのびない。大勢の人が一斉に「良い!」というものに、気軽に乗っかる「ミーハー心」が欠如しているのだと思う。

めんどくさい話なのだが、自分でそういった選択しているはずなのに、周りのムーブメントに乗っかっていけないことで、その輪から仲間はずれにされているような寂しさを感じる。「行ったら絶対楽しい」「感動の涙を流す」といった予定調和が約束されているのに、その機会を自ら手放しているもったいない気持ちもある。

なのに。どうしてなのだと葛藤している自分がいる。

なぜ?に答えていく

ひとつ。「知ったかぶり」が苦手なのだ。呪いにかかっていると言ってもいいかもしれない。ゲームのルールを知らないと楽しんではいけないとか、俳優や原作に詳しくないといけないとか、高級ブランドのルーツや背景、業界ポジションを知らないと身につけちゃいけないとか。そんな呪いだ。
身近なところで言うと、英文がプリントされたTシャツ。筆記体でおしゃれに書いてあっても、目を凝らすと「ロサンゼルスで会いましょう」といったツッコミ待ちのメッセージが書いてあったりする。知らないでそのメッセージを担いで街を歩くなんて、恥ずかしくて想像するだけで顔が真っ赤になる(ちなみにそのTシャツは実際にソワソワしながら着ている。着てんのかい。)

余談だが、かつて「鶏肉はももよりむね肉派」と独自のこだわりがあることをアピールをしていた人がいた。その人が超リーズナブルな居酒屋で、もも肉の焼き鳥を「やっぱこれだよね〜」と嬉々として食べているのを見て、尊敬という気持ちが3秒で全壊したことは言うまでもない。(これは知ったかぶりより、次元が低いけれど。)

化けの皮が剥がれて、誰かに「分かっていないクセに偉そうに」と思われるのが怖いので、知ったかぶるのは苦手。逆に知ったかぶりに遭うのも苦手なのだ。

次に、プロフェッショナルに対して安易な「応援」ができないことだ。

プロは、ずっと前から人一倍努力をして、その日に臨んでいる。誰に言われるでもなく、自分の意志でスタートラインに立ち、前を向いて進んできた。だから、知りもしない凡人からのにわかに湧いた応援は薄っぺらく、逆に失礼なのではないか。と思ってしまう。

リスペクトはしているし、これまでも多く人のパフォーマンスを見て、鳥肌が立ち涙ぐむこともあった。でもわたしは彼らに対して、自分の期待や応援を贈ることを躊躇してしまう。

また、周りの人の振る舞いについては、凡人の身で偉そうに評論することもいただけない。さらに、自分の成果のように振る舞って騒ぐのも嫌い。お祝いは頑張った人がするのだ。渋谷の交差点を我が物顔でパレードする必要はないのだぞ、と。そういう人とは、一線を画しておきたい、という漠然とした気持ちがある。

でも、ミーハーは楽しくて、楽。

あぁだこうだ言い訳をそれらしく並べてみたのだが、結局ミーハーは楽しそうなのだ。あれこれ考え選択せずとも、プラスになる結果が得られるのだから、タイパ最強である。

ミーハー至上が適用されるのは、イベントだけではない、ファッションもそうだ。

たとえば、SNSの「#おすすめコーデ」「#着回し」「#神コーデ」「#高見え」のハッシュタグで流れてくるコーディネートは、誰もが買えるお店の、手頃な値段で、冒険が少ないカラーの商品が紹介されている。コーディネートの特徴はなくなってしまう反面、ファッション大手が有するおしゃれの叡智が詰まっているので、それはそれは簡単に旬のスタイルが手に入る。

そしてわたしも、まんまとそれに乗っかっている。お財布に優しく流行りにおいていかれないのが良いのだが、それ以外だと、鏡を見なくともスタイルの想像ができるのが良い。なぜなら日々他人の着るコーディネートを見ているから。鏡を見て調整をしなくても、そのまま安心して外に出られる。
ミーハーとは、他人を信じることなのかもしれない
そんなこんなで、全身鏡が割れて数ヶ月、まだ新しい鏡は我が家にはない。

でも、憧れの人は非ミーハー

じゃあ「これ着ておけば、優勝」を鵜呑みして楽に過ごしていればいいのか?というと、ひねくれ者は首を縦に振れない。ウィンドウショッピングでは、ついつい明るい色や目立つ配色の服を手にとって、鏡越しに着ている姿を想像するのが好きなのだ。そんな服は当然着回しがしにくかったり、オケージョンを選んだりして、非ミーハーだ。

最近Youtubeで、ロコリさん(https://www.youtube.com/@rokori1951)という70代の方がやっているチャンネルを見ている。自分でファッションのお店を経営していた過去や、百貨店で勤務していたことがあり、プチプラファッションでも着こなしにこだわりがあるのを感じる。他の人のスタイルにはない、ロコリさんらしい着こなしだ。そして、何より楽しんでいる気持ちが動画中に溢れている。

「数年前に買ったもの」とか「500円で買ったもの」とか、ある価値観で見るとチープなように聞こえる。しかし彼女にとっては、一期一会で手に入れたお気に入りのアイテムである。大切なものの軸があることや、「素敵でしょ」と胸を張って発信できることに、どんどん憧れの気持ちが湧いた

ハイブランドを買う若者が増えたと、耳に挟んだことがある。理由は、プチプラでも質の高い服が増え、ハイブランドとの差がわかりにくくなってきているという流れの中で、価値をわかりやすく示してくれる「ロゴ」のついたものを選ぶようになっているからだとか。

ロコリさんは、その逆。ロゴではなく、「自分軸」で心を踊る日々を手に入れているのだ。(もちろん、プチプラだけでなく、ヨーロッパ製のおしゃれなメガネや、綺麗なヘアカットもされています!)

ミーハーになれなくても

いいじゃないか。だって、心が動かないんだもの。

ということで、ミーハーになれないことについて、悲しく感じたり、他の人と違う自分を卑下したりするのをやめようと思う。それが自分軸のスタートライン。

ただし、自分軸といえど、孤独に過ごす必要はない。わたしは親しい人と楽しいことを共感したり、その共感から発見を得たりと社会的な活動もしたい。何より、好きな人の好きなことは、わたしも同じように面白がる事ができるから。その人を通じて、ミーハーな世界に無賃乗車できるならば、喜んで乗っかっていこうよ。そんなふうに考える。

さて、4年後の今頃、「WBC見た?」と聞かれたら、わたしはすかさずこう言う。

「見てないんですけど、いい試合ありました?」わくわく声を弾ませて。

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