土曜の朝。フレンチトーストの幸福感はどこより来たる。

粉砂糖がまぶされた。シンプルなフレンチトースト たのしむ

土曜日の朝にフレンチトーストを焼いている。朝から雨がずっと降っているし、さらに言うと低気圧で、頭も重だるい。
だけれども、気分は明るい。それはフレンチトーストのせいかもしれない。

でもどうだろう。この世においしい食べ物ランキングがあったとしたら、家で作るフレンチトーストはその上位にランクインするだろうか。自家製フレンチトーストの正解に未だ出会ったことがないわたしは、その仮説に眉唾物である。
たっぷりの卵液につかった食パンは、ふんわりじゅんわりする。でもそれだけでは食感が足りない。外側のカリッと感がもっとほしいけれど、火力を上げると焦げるので、加減が難しい。
そして甘味の調整も難しい。食事ともデザートとも白黒はっきりしないフレンチトーストに、思い切って砂糖を入れる決心もできず、結果、中途半端な甘さに。ただそれでも、フレンチトーストにプラスの感情が湧くのは、「おいしい」以外の理由がありそうだ。

小さい頃、休日の朝食にフレンチトーストが出ていた。今思い出したのだが、高校の時のお弁当がフレンチトーストだったこともある。アルミホイルに包まれたシニャシニャのそれだったけれども、嫌いじゃなかった。周りの友達も物珍しそうに、そしてちょっと羨ましそうにしていた。そんな風景を思い出す。

わたしの母の作るフレンチトーストが極上においしかったからではないか。そういう過去の記憶が現在のフレンチトーストに対するポジティブな感情につながっているのではないか。そう考えることもできるだろう。しかし、うちの母はそこまで料理に気を配るタイプではない。(誤解なきように断りを入れておくが、わたしは彼女の作る食事で大学卒業まで成長させてもらったので何の文句もない)
一人暮らしをした時、わたしは「そうめん」の美味しさに驚いた。そして、もっと驚いたのが、薬味や麺つゆを準備しているとあっという間に過ぎる「1分」という茹で時間だ。実家で食べていたそうめんは、おそらく3分くらい茹でてあっただろう。夏に連続で出るそうめんに辟易した覚えがあるのは、茹で時間が長いせいでそうめんが伸びていたのが原因だろう。こんなように、そうめんの茹で具合に繊細になるような母ではなかったので、わたしが小さい時分に食べたフレンチトーストも、おいしさとしては並だっただろう。

だけど、当時からフレンチトーストは、気分が上がる食べ物だった。

もしかしたら、それは、フレンチトーストという概念が持っているのかもしれない。
それが分かってしまえば、正しいと信じるならば、こういうことが言える。

「物の捉え方や位置づけの仕方」次第で、いくらでも喜びが作り出せる。

今わたしは、「となりの雑談」というpodcastを聴いている。これはコラムニストのジェーン・スーさんと雑談の人として活動している桜林さん(サクちゃん)の2人の番組だ。雑談といっても、内容のない話ではなく、生活する中で自分に悪さをする思考の癖を、深掘りしたり、具体的なエピソードを出したり、意見を言い合ったりしている。
EP2~4あたりで、「泥にいる」と表現する話が出てきた。楽しく思いのままに生きている人がいる一方で、自分が苦労やつらい思いをしているのは、あの輝いて見える他人と別の世界、「泥」の世界にいるから。「泥にいるなら仕方ない」という諦めてしまうという話だった。

かつて自分が「泥世界」にいたこと、そして今さほどその認識にとらわれてないことに、この回を聞いて気がついた。

学生の頃は、自分の存在というのが肯定できなかった。不思議なことに、その一方で全然ダメダメな人間ではなく、努力すればそれなりに成果が出せるということもわかっていた。だけど、漠然と、自分は生まれた時点で負の存在であり、「居てもいいよ」という許可を得るには、人の役に立つ存在にならないといけない。存在価値は、他の人が客観的に評価するものであり、それが頑張る理由でわたしの活力だった。

社会人になってもしばらく泥属性にいた。ファーストキャリアは営業で、客観的に数字で評価される環境だった。泥属性の性格からすると、努力がダイレクトに成果になるので、モチベーション維持がしやすかった。同期と話していた時だろうか。「なぜそんなに頑張れるの?」と聞かれたときに、「わたしはみんなと一段低い世界にいるから、今のわたしの努力は、マイナスから0地点に這い上がるためのもの。ようやく0地点に来たから、ここからプラスに上がっていかないと、わたしは価値のない人間。だから頑張っているんだ」と回答した覚えがある。謙遜ではなく、ガチでそう思っていた。
この後も5〜6年はそういう世界で過ごし、役に立っているのか?と他人からの評価を常に気にして、待っていた気がする。

いつわたしはその「泥属性」を卒業していたのだろうか。

もしかしたらそれは、社会一般的な「幸せの姿」から飛び出した頃からかもしれない。具体的にいうと離婚をして、一人暮らしを始めた時だろう。

一人で暮らすようになってすぐコロナ禍が始まり、自粛生活に入った。人に会うこともままならない中で、家にこもるような生活になった社会は、先行きの見えない中で不穏な空気になった。その一方で、星野源の「うちで踊ろう」のように、自分自身の中で楽しもう踊ろう、離れていてもそれぞれの場所で楽しく居られるんだよ、というシンプルで超基本的、でも人々が忘れていた感覚が取り戻されたタイミングでもあった。

ドタドタっと、一気にこれまでと違う環境に突入して、最初は戸惑ったが、自分なりにご機嫌になれること考えた。楽しみ方を誤ってお酒をたびたび飲み過ぎる事もあったけれども、プロジェクターを買って映画を見たり、時間のかかる料理を作ってみたり、何時間も散歩してみたり、そういった自分で自分を楽しませるようなことができた。

離婚自体はわたしにとっては前向きなことで、これっぽっちも恥ずかしいことではないと思っていたから、今の生活を淀みもなく心から楽しんでいるのだと、わたしがわたしをきちんと評価するようになった。

他人によって、自分の存在に点数をつけられるのでなくて、自分自身が決めて良いと思えたきっかけだった。

今だってそうだ。未だに一人暮らしをしていて、家に帰ってきて「おかえり」と言ってくれるような人もいないし、駆け寄ってくるかわいい猫もいない。もっというと、仕事もしていない。
言葉だけ並べると非常に体裁の悪い感じだが、精神的にも物理的にも不幸せを感じていない。他人に評価を委ねていないからだろう。

ご機嫌に生活をしていることは、数値で表せない。だったら自分で合格点をつければ良いのだ。

話が矛盾するようだが、注意すべきことがひとつある。それは、全ての評価や責任を自分で持たなくてもOKとしておくことだ。
人は波打つバイオリズムの中で生きていて、あらがえないような底辺の時期が周期的にくる。そんな時に自分を責めるのは何の救いにもならない。そういう時は魔法の呪文、「よろしくご自愛!」を唱えて、満月や低気圧のせいにしたり、目をつむって寝たふりをしたりしていればいい。(もちろん大人のふるまいとして、他責にするのは限度があることが心得ているべき)

自分ご都合至上主義で、良い事柄にも悪い事柄にも、向き合っていけば良い。
ここ数年はずっとそんな感覚が自分の軸となっている。泥属性から這い上がれた証である。

さて、話をフレンチトーストに戻そう。

家で作るフレンチトーストは、実のところべちゃべちゃであまりおいしいとは言えない。
焼けば食べられる食パンを、前日から卵液に漬け込み、粉砂糖でわざわざおめかしをさせる意味はあるのだろうか。意味はないだろう。

それでもわたしは、バターが溶けるいい匂いに、鼻歌をのせて、フライパンでそれを焼く。
究極、誰に理解されなくても、わたしにとってフレンチトーストと向き合うことは、それ自体がただただハッピーシングスなのだから。


フレンチトーストが食べたくなったかも..という方はぜひポチッとお願いします!

にほんブログ村 その他日記ブログ 無職女性日記へ

タイトルとURLをコピーしました